花札
花札(はなふだ)は、日本の伝統的カードゲームの一種であり「花かるた」とも呼ばれた。 今では一般に花札といえば八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48枚の由来は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。 2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。 そのほかにも、日本各地に独特な遊び方がある。
歴史
日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代。 宣教師が鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたとされる。 ちなみに日本の「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。 天正時代(1573~91)にはすでに国産のかるたが作られており、当時の札が一枚だけ現存する。 江戸時代には、賭博という閉鎖性と当時の物品流通の実態から、日本全国に普及したカードゲームは、各地で様々なローカルルールを生み出し、そのローカルルールにふさわしいように札のデザインも変えていった。 それらの札を「地方札」という。
かるたへの禁制は安永のころから厳しさを増し、とくに寛政の改革では売買が厳しく禁止された。 花札は、この禁制からの抜け道として考案されたと考えられている。 それまで12枚×4スートであったものを、花札では数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタをモチーフとした。 しかし、花札もすぐに禁止された。現在残っている最古の禁令は1831年のものである。 また『摂陽奇観』によると、それ以前の1816年にすでに花合(=花札)が禁止されており、それ以前に花札が考案されていたと考えられる。
明治初期には相変わらず花札は禁止されていたが、1886年に販売が解禁され、同年に銀座の上方屋から花札とルールブックが発売された。 これ以降花札は大いに流行した。 その一方で1902年に「骨牌税」によってカルタ類が課税されるようになると、地方札を生産していた日本各地のかるた屋は倒産し、地方札は廃れていき、各地に伝わる遊び方も滅びていった。 なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有しており、発注も可能である(もちろん、相応の発注単位である必要がある)。 同社サイトで、地方札原版がファイルに収められている様子が確認できる。
現在、花札を製造している企業は、「任天堂」「田村将軍堂」「大石天狗堂」「エンゼルプレイングカード」をはじめ、多数存在する。 2009年夏まで、「松井天狗堂」が日本唯一の手摺り花札を製造していたが、職人の高齢化や後継者不在などの理由で現在では製造を辞めている。 「花札」の「花」は、花鳥がデザインされているためにこの名があるが、また本カルタ(南蛮系・天正系を源流にするもの)に対する代用品という意味もあるだろうという。 花電車・花相撲などに使われている「花」の意味である。
もともと歌かるたは上流階級の遊びであったため、幕府は下流階級の商人や町人が使用することを禁じた。 [要出典]そのため人々は幕府の目を盗んで賭博行為をするため、店の奥に賭博場を用意した。 店に入った最初に「鼻(ハナ=花札)をこする合図」をすると店主が「奥へどうぞ」と賭博場へ案内してくれたという。 賭博行為で使用するという後ろめたさから、隠語的表現で花札の販売店には花=ハナ=鼻として「天狗」の面が掛けられていたことからパッケージにもイラストが描かれることになった。
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